8/5 ②多賀城フィールドワーク&学校交流
多賀城駅に着きました!
暑い!!!!!!
多賀城市内では最大4.6メートルの浸水深を観測しました。
市域の3分の1(約662ha)を津波が飲み込みました。
市内で亡くなられた188 名の方の
お名前が納められています。
市民だけではなく、市外から訪れた方々、
そして震災を経験していない将来の世代にも、
多賀城市の被災状況や、減災への誓いを
伝承していけるものとなっています。
ロータリークラブの方に
市内を一緒にまわり当時の様子を
聞かせて頂きました。
最古の日本語・神代文字(かみよもじ)
(コマツタエ)で言い伝えとして残っている。
実際、津波が来たことがない。
昔の人はそれを分かっていて
城を高いところに建てた。と言われています。
多賀城にある歌枕「末の松山」は、
契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは
(清原元輔)
なので「津波の際は末の松山に逃げろ」と言われている。
多賀城イオンに着いて
タクシーから降りると潮の香がしました
海に入ったように肌がぬるぬる🤭‼︎
目にも何か入る。風もすごく強い。
大震災の時、
イオンから見える駐車場に
人がいたので
皆で「逃げろ!」と叫んだ。
でもそのまま飲み込まれてしまった…
→現在
→このURLから津波がきた当時の様子を
見ることができます。
イオンの近くに住んでいた人たちは
イオンの2.3階へ避難した。
1階は浸水した。避難した人の多くは
寒かったので階段で過ごした。
イオンでは食品や毛布など提供した。
イオン多賀城店からの写真↓
この大きな鉄塔は
日本に3台しかないクレーンを持って来て
震災から1か月で建て直されました。
動画から津波で鉄塔が倒れそうになってる
様子が見られます。
(電線があったので倒れなかった)
東日本大震災大津波 イオン多賀城店 Tsunami attack in Japan - YouTube
※震災当時の様子(津波の映像です閲覧注意)
ロータリークラブの方から
教えて頂いた当時の様子
街の電柱は一つ残らず倒れた。
津波が黒い壁のように見えた。
沿岸部の津波と
都市の津波には違いがある。
沿岸部では少しずつ揺れて大きくなる。
津波は静かに襲来し、
どんどん勢いを増し
湾奥へと押し寄せた。
都市部の津波は黒い壁が
車をのみこんで押し寄せてくる。
多賀城市は海から近いところにあるが
津波がくる方向が予測できなかった。
都市では海から近いが実際に海は見えず
津波のくる方向が分からない。
また
建物が地震で崩れて道が狭まり
水位が上がる。
(都市型津波→海が見えない恐怖)
その為
「津波は遠いところへ避難するより
近くの高いところへ逃げる!」と言われている
津波は30㎝でも足がすくわれる。
津波は1度押し寄せて引いていく。
何度も 波がくる。
流されたものが元の場所に15分して
戻ってくる現象があった。
水が河を上ってきた。
河が氾濫し逆流する→河川津波
海から川を伝って9㌔も逆流した。
市内で火災が発生。
海でも火災が発生。
(タンクから油が出る→黒い海)
家がまるごと川に流される。
トラックが縦に3台刺さってる。
車の中で亡くなる人が多かった。
(車の中が血だらけ)
その日は津波の被害が少なかった。
そのため3/11で判断を間違えてしまう
(大丈夫だと思ってしまった)人が多かった。
特に工業地帯で働いていた人は
上司がいない場合、
逃げ遅れてしまうこともあった。
(避難指示を出す責任者が不在)
震災直後でも食品の入ったバスの中身を
勝手にとることはない→日本人だなと思った。
新しく建てられたマンションには4階まで
「逃げろ」避難をするように促す表示がある。
多賀城高校の生徒が付けた
津波の高さが示された看板のついた
電信柱が市内に120本ある。
◉学校交流
海から3㌔のところにある高校。
東日本大震災の経験と教訓を
後世に継承するとともに、
来る国内外の防災・減災に貢献することを目的として、
平成28年に「災害科学科」が導入され
震災の啓蒙活動に取り組まれています。
生徒を家に帰した。
そして帰宅中に津波が来て
生徒が歩道橋で1夜を過ごすことになった。
未来の防災を担う若者たちが集う
「全国防災ジュニアリーダー」の合宿に
特別に交ぜてもらいました。
実際に地震が起きた時、目的を決めて
どう行動するか、
【津波避難シュミレーションワークショップ】
目的までの道のりに
「!」がある
→そこでハプニングが起こる。
対処法を考えながら目的に向かう
(↑ハプニング)
交流高校の中には
阪神・淡路大震災の教訓を生かし、
全国で初「環境防災科」を導入された
「兵庫県立舞子高等学校」 など...
学校間を越えて
ワークショップや
意見交換を通し
防災について
深く学ぶことができました。